その1 白田家政さん


タミヤニュースVol.12 当時は高校1年生


例によって久々の更新です。
タミヤニュースVol.406(2003/03号)を見て、初めていらっしゃった方、こんにちは。

2001年初頭に当研究室助手が「タミヤニュースの世界」を編集した時に、「過去にタミヤニュースに出た方を再訪しよう」という企画をたてました。小松崎茂、高荷義之、金子辰也、山田卓司、石坂浩二、山本和彦、佐藤邦彦、カンプグルッペジーベン、ウイリアム・ヒロシ・カフ(敬称略ですいません)・・・本当に沢山の方々を実際に訪ねることが出来ました。しかしその一方で、限られたページ数ということで断念した方、人選過程で消息がわからず涙を飲んだ方も多数いらっしゃいます。そんな方をいつの日か機会を見て一方的に再訪したいなあという思いを実現させたコーナーが今回から始まります。

「白田家政」さんという名前はずっとひっかかっていました。正直に言って白田氏の作品発表には1963年生まれの当研究室助手はリアルタイムでは触れていません。しかし後に手にすることになったパチッ特集号1号の最終ページや1970年版総合カタログに載ったピラミッドの前の戦車という写真に強烈な印象を持ち、「この高校生は凄いなあ」と思ったものでした。その後続々と入手する資料にも白田さんが登場していたことがわかりました。なんといってもタミヤニュースVol.9(1968/05)で、読者から送られた特撮写真を初めて紹介するコーナー(パチッの前身ですね)が始まった時のトップが白田さんだったのです(このページは「タミヤニュースの世界」p118に再録してあります)。その後、タミヤニュースVol.14(1969/03)ではパンサーの写真を、Vol.16(1969/07)ではツインフラックと別角度のパンサーという2枚の写真が掲載されました。さらにモデルアート1969/12月号には「白田家政特撮写真集」というコーナーまで作られました。

当然、「タミヤニュースの世界」の編集過程で、この白田さんをもう一度紹介したいと思ったのですが、1970年6月に発売になったパチッ特集号1号の作品発表を最後に、氏の作品を一切のメディアから見つけることが出来ませんでした。同時期から活躍なさっていたベテランモデラーの方に何人か聞いたのですが、どなたも交流が無いとの事。もちろん30年以上前のことですから静岡のタミヤ本社にも住所を特定できるような資料は残っていません。こうして涙を飲んだのでした。

それが「タミヤニュースの世界」が発売されてから丁度1年経ったころ、タミヤニュースVol.397(2002/06)の「こえ」の欄に信じられない名前を発見しました。白田家政氏本人の投稿だったのです。一瞬同姓同名の方かとも思いましたがパチッ特集号1号に作品が載ったと書いてあるので間違いありません。な、なんということでしょう!そして読み進むと、東京・青山の美容室「SOIL HAIR」オーナーとして現在も自らもハサミを手になさっているとのこと。早速インターネットで「白田家政」で検索してみると、何件もHITするではないですか!普段、これだけインターネットを使っていながら、肝心な時にフルネーム入力検索をしなかったのは全くの盲点でした(その後、これは!と思う方をネット検索したのはいうまでもありません)。

この機会を逃すテはないと思った当研究室助手は、早速「SOIL HAIR」に電話をして髪を切る予約をしてお店に向かいました。驚いたことに、お店は当研究室助手の愚息が通う小学校から徒歩数分の所にありました。白田さんご本人に会うことができてこちらも驚きましたが、もっと驚いたのは白田さんご本人だったようです。まさか現在も大事になさっているとは思いもしなかった当時(30年以上前)の作品が店の奥から出てきた時は、お店の女性スタッフも含めて当研究室助手の興奮は極致に達しました。

この時の模様を皆さんにお知らせしようと思い、アーマーモデリング誌編集部に相談すると、「いいですね。やりましょうよ」ということになりました。載せるには当時のタミヤニュースやパチッも一緒に載せたいので、当然タミヤ本社にもお伺いを立てます。すると、「いいですね!その企画、タミヤニュース本誌でやりません?」というありがたいお言葉!!ご本家からのありがたい話ですから願ったりかなったりです。唯一気になっていた「タミヤニュースだと画像がモノクロ」ということも、当研究室HPでカラー画像をUPしてフォローすれば済む事です。

こうして初のタミヤニュースとのコラボ企画が実現し、めでたくタミヤニュースVol.406(2003/03号、2003年2月10日発売)に載りました。本文はそちらに任せるとして、ここではカラー画像を中心にフォローします。念のため確認しますが、作品はいずれも30年以上前に作られた当時のままです。写真を投稿するきっかけになったエピソードがしゃれてます。「当時、地元の名古屋の某有名模型店でコンテストがあったんですよ。それで何ヶ月もかけて作りこんだM4シャーマンを持ち込んだら、『これはウチのお店で売ったものではないからダメ』といわれましてね。よ〜し、それならこんな狭い世界じゃなくてもっと沢山の人に認めてもらえるようになってやると思って、タミヤやモデルアート誌に写真を送ったんですよ。」

当時のまま大切に保管されている写真や資料を拝見していると、3号戦車の実車のモノクロ生写真を発見しました。「ああ、これはタミヤの、えっと、今は社長になられた田宮俊作さん(当時は企画部長)に当時送っていただいたんですよ。実車の感じはこうですよって。どこか外国の戦車博物館で自分で撮った物だという事で、ええ、嬉しかったですね。タミヤに自分の作品の写真を送っていたこともあって、気にかけていただいたのでしょうか。」・・・時期から考えると1970年頃になります。まだミリタリーミニチュアブームが爆発する前で、情景写真という新たなマーケットを育てる大切な時期に、現場のトップ自らがファンに貴重な写真をプレゼントしていた・・・なんだか嬉しくなる話でした。

白田さんは高校を卒業後、美容師の専門学校に通い、東京へ出てきてからは川島文夫氏(当研究室助手は、この業界は疎い為初めて知ったのですが、日本の美容師界でのトップのお一人なんですね)の元(PEEK−A−BOO)で10年間修行し、白金台で初めてお店を持って14年、青山に移って3年目だそうです。ちなみに白田さんを指名してくるお客さんの中には、田中康夫長野県知事(軽く10年以上のお付き合いで、毎月長野から通っていらっしゃるそうです)や(PEEK−A−BOO時代は)テリー伊藤さんといった超有名人もいらっしゃいますが、白田さん自身はとっても気さくな方です。当研究室助手の行きつけの美容院がSOIL HAIRに変わってしまったのは言うまでもありません(^_^)。いきなり青山のカリスマ美容師(この言葉はちょっと古いか)と、強引にお知り合いになれたわけで、とっても満足しております。

一応、このシリーズは連載の形を目指しますが、相手もあることですし次回は未定です(^_^;)。基本的に一度はタミヤの出版物に名前・作品・記事が載った方を考えています。リクエスがありましたなら教えてください。助手の個人的な希望では、パチッ4号金賞の石津明さんを探しております。1972年当時神奈川県在住の17歳(現在は48歳前後ということでしょうか)。また、1964年版総合カタログの表紙になった「ビッグショットと一緒に写る少年」も探しております。こちらは当時12歳とすれば、現在は51歳前後になります。こういった方に、いつか会えたらいいな〜と思い続けるのも、なんだか夢がありますね。

(2003/02/09)


今も大切にアルバムに残る当時の写真。地元庄内川の
河川敷で撮ったものが沢山。
まだパチッ特集号が創刊される前から、トリミングなど
こだわりを持っていらっしゃいました。
自然光を強烈に意識し、陰影をはっきりと狙っている。
デカールのテカりもなく、外れたスカートも効果的
これがウワサの刈り込んだゴルフ場の芝 
遠くに見える橋・鉄塔は本物
お店の奥に大切にしまってあった箱の中には・・・ 見事な揃い踏み
30年前も、現在も、写真で白田さん自らが
手に持っているのはこのツインフラック
当時発売されたばかりのタンクカラスプレーを
初めて使い型紙塗装したというパンサー
あのゴムキャタピラM4シャーマンを、当時ここまで
作りこんだ方はいなかったのでは・・・
タミヤニュースVol.9に載ったSU100も健在
冬季迷彩の汚し塗装が秀逸
シャーマンの拡大写真。ライトガードなどは
すべて金属板(クッキーの箱)で作り直してある
ワイヤーロープは小包の荷札の細い針金を
より合わせて作ってある
最初に厚めにレベルカラーを筆塗りし、半渇きの時に
トントンと筆で叩き表面を荒らしてある
本来はのっぺりとしたゴムキャタピラ裏側は、消しゴムを
3mm角に切り刻み黒に塗って接着(300個以上!)
パンサーの後部排気管はピンバイスで開口
コーティングはパテ盛りのあと、自作スタンプで模様
雑のうはティッシュペーパーで自作。
スカートも金属板で自作
スカート裏側。クッキーの入っていた大きな金属缶を
金切バサミで切って作ってある
マズルブレーキの硝煙汚れにも気を遣ってある
現在の目で見ても遜色は無い
普段のお仕事中の白田氏 地下鉄表参道駅下車徒歩2分

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